今週のメッセージ
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Message
本日の礼拝説教要旨
[ 究極の選択 ] マタイの福音書26章36-46節
イザヤ書 42章1-9節
足立 宏 牧師
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」
マタイの福音書26章39節
主は、こう祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」イエス様は、この時汗が血のしずくのように流れ出るほど、苦しみながら祈られたのです。 時間にして1時間を三回ほどです。
イエス様は、罪深い私たちが滅びないで、永遠の救いには入れるように、この世に来て下さいました。そしてイエス様自身、何度も、十字架の死を予告されました。 そして逃れることもできたでしょうが、エルサレムにやって来て、十字架の死を覚悟されていました。 なのに、どうして恐れを感じられたのでしょうか。それは天の父様から捨てられるからです。イエス様は死を恐れたのではないのです。罪のない御子イエス様が、罪人の身代わりとして十字架という呪いの木で、神様の怒りを見に受けることを恐れ、苦しまれたのです。 ただ死ぬのではないのです。呪いの木で裁かれ捨てられるのです。
イエス様と天の父なる神様との間には、「子」と「父」としての親密な交わりがありました。それはこの世界が存在する前からの交わりでした。そしてここでも、わが父よ、と、豊かな信頼関係の中に居られました。しかし全ての人の罪を負い、身代わりとして裁かれるとは、この交わりが断たれ、神に見捨てられることを意味したのです。 それはどれほど、苦しく、恐ろしいものだったでしょう。
しかし、イエス様の願いは、あくまで天の御心に従うことでした。そこで、十字架で裁かれ、死ぬことが避けることのできない父の御心であると悟った時、イエス様はそれを受け入れられたのです。
「 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
父のみこころとはなんでしょうか。私たち罪ある者が永遠の滅びではなく、永遠の命に入ることです。その為にイエス様は、呪いの木に架かり、神に裁かれ、捨てられて下さったのです。
私たちの救いには、こんな大きな犠牲があったのです。